海外でこのブログをご覧いただいている皆様、いつもご愛読いただき、有難うございます。今週は、
米国から8件、ドイツから6件、ウクライナから3件、ロシアから2件、そしてフィリピンから1件のアクセスを頂きました。俳句を学ばれる上で、参考になれば幸せです。
さて、先日の講座で、こんな句が有りました。
十薬を煎ず匂や祖母白寿
十薬をお茶に仕立てし母卒寿
お祖母ちゃんが白寿です、お母さんが卒寿です、先ずはめでたい。しかし、なぜ祖母が白寿でなければいけないのか、なぜ母が卒寿でなければいけないのか、というところに問題があります。要するに、なぜ、年齢に拘るのか、という事です。祖母傘寿ではいけないのか。母は喜寿、ではだめなのか。
十薬を煎じる匂はいかにもお祖母ちゃんらしい感じ。だから、季題はそれなりに働いています。ところが、そのお祖母ちゃんが白寿だと、そんな事知るか、というのが読者の反応。作者にとって白寿のお祖母ちゃんかも知れないが、読者にとっては傘寿も白寿も、違いが無いのです。極端に言えば、還暦から始まって、10年ごとにこの様な句が詠めることになります。傘寿の句の10年後には、ここを卒寿にすれば良いのです。
十薬を煎ず匂に祖母をふと
十薬をお茶に仕立てし母のこと
こうすれば年齢に関係なく、お祖母ちゃんやお母さんを追慕・回想する句になります。白寿や卒寿の方を故人にしてしまって申し訳ないのですが。
季題の働きを殺してしまっては俳句になりません。俳句は文芸作品であり、読者に感動を与えて初めて俳句になります。芸術とはそのようなもの。お祖母ちゃんの年齢に拘るのは構いませんが、それはあくまでも個人的なものであって、読者に押し付けるものではないと思います。作品としてどうか、それをお考えください。たとえ事実がそうであっても、作品として詠む場合は事実でなくとも構わない。読者に感動を伝ることの方が、事実を述べることより大切だからです。
近松門左衛門は「虚実皮膜の論」というものを述べています。芸は実と虚との皮膜の間にある、という主張で、事実と虚構との中間に、芸術の真実があるとする論です。また、芭蕉に「俳諧というは別の事なし。上手に迂詐(うそ)をつく事なり。」という言葉が有ります。俳句の、文学としての芸術性に付いて述べられたものですが、味わうべき言葉です。
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