虚子の著「俳句はかく解しかく味わう」(岩波書店)の中に次の一節があります。「月並的の句はあまり作った事が無いから、その真似をすることは出来ぬが、要するに月並は、或景色を面白いと感じても、その面白い景色をそのまま叙することをしないで、何とか其処に理屈をこじつけ、その理屈を面白がるのである。たとえば、三日見ぬうちに蕾であった桜が、もう満開になってしまった、というだけでは満足しないで、「世の中は三日見ぬ間に桜かな」といわねば承知せぬ。即ち桜のまたたくうちに咲くという事を世の中のことにたとえ、世の転変は皆かくの如きものであるといわねば、面白くないように心得ているのである。」
ところで、今日の俳句講座でこんな句がありました。
核家族言はれて久し雑煮膳
雑煮の膳に集まる家族が少なくなった、ここまでは事実です。昔は大家族が集まって賑やかに雑煮を祝ったものだが、今ではこの有様。核家族化が叫ばれて久しいが、やはりその影響だろうか。この部分が川柳的です。次の句はどうでしょう。
福笑ピカソのやうな顔になり
この句は見たままの感想を句にしており、俳句として好感が持てます。
福笑ピカソもミロも苦笑い
ここまで詠むと月並みの匂いのする句になります。理屈を楽しんでいるからです。ピカソやミロの絵を念頭に、あんな絵を描くピカソやミロでも、このお多福の顔には苦笑いするだろうな。正月の風物詩としての、福笑という季題ではなくなり、もはや単なる季語。理屈に走っていないか、絶えず警戒して、月並み句にならないように注意しましょう。
赤星水竹居著「虚子俳話録」(講談社)にこんな問答が載っています。
某曰く。 先生、百年の後には我々の俳句はいったいどうなるのでしょうか。
先生曰く。 再びもとの月並に返りますね。 (昭和10年12月17日)
虚子がこの言葉を発せられて79年、もうすぐ100年です。
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