先日、読売新聞に掲載された記事を読んでいて、ハッと思いました。「走ろう大阪マラソン」の第4回の記事です。記者が、ランニングクラブ「チームパラオ」代表の宮里康和さんにインタビューしたものですが、宮里さんのご意見が、俳句の勉強にぴったり当てはまるのです。やっぱり同じだな、という感想を持ちましたので、その一部を紹介します。
(前略) マラソンの素晴らしさは、自分の心の成長を感じられること。ある大会で「自分のために走り出し、誰かのためにゴールする」というスローガンを聞きましたが、その通りだと思います。
最初は走るだけで精いっぱい。自分のタイムばかりが気になる。だけど、経験を重ねるごとに、声援に感謝する余裕が生まれ、仲間に気遣いができるようになる。誰かが喜んでくれることが、走る理由になっていくのです。(後略)
この文章をそっくりそのまま、俳句に置き換えてみます。
俳句の素晴らしさは、自分の心の成長を感じられること。ある句会で「自分のために俳句の詠み方を習い、誰かのために句を発表する」という話を聞きましたが、その通りだと思います。最初は句を作るだけで精いっぱい。自分の成績ばかりが気になる。だけど、経験を重ねるごとに、互選に感謝する余裕が生まれ、仲間に気遣いができるようになる。誰かが喜んでくれることが、作句の理由になってゆくのです。
如何でしょう。いつも、俳句は自分の為に詠むのではなく、読者のために詠むものだ、と申し上げていますが、このことと見事に付合します。初学の頃は、読者に分かろうが分かるまいが、とにかく自分の思いを吐き出すために句を詠みます。随分我儘な、独り善がりの句を、口から出まかせに詠む、そんな時期です。芸に至る前の段階です。
しかし、5年ほど経って少し実力が付き、句会でも2・3句抜けるようになってくると、互選の句にも耳を傾ける余裕が生まれて来ます。そうすると、俳句を通じて自分の思いが他の人にどのよう伝わるのか、どう詠めば分かってもらえるのか、という事を考えるようになります。芸に目覚める段階です。芸とは、自分が抱いた感動を相手に伝え、その感動を相手と共感することです。読者が一緒になって泣いてくれる俳句、一緒になって喜んでくれる俳句、それが芸としての俳句だと、私は思います。マラソンも、選手と観客とが一体になって作り上げる芸なのでしょう。
遺されしものの数々春の星 伸一路
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