先日の野鳥句会では肌脱(はだぬぎ)と言う珍しい兼題が出ました。珍しいといってもホトトギス新歳時記に七月の季題として収録されているのですから、歴とした季題です。角川の大歳時記にも有りますが、どちらの例句も比較的最近の作者の句ばかりですから、古いものではなさそうです。
さて、肌脱と言う言葉から、諸肌脱いで太鼓を打つ姿を連想した人が多かったのか、太鼓を打つ句が幾つか詠まれました。無法松の乱れ打ちを思わせるような、勇壮な句もありました。しかしこの解釈で良いのでしょうか。
河内音頭や江州音頭のような、櫓の上で太鼓を打つ姿を詠むとすれば、季節はいつになるでしょう。踊という季題の傍題に躍太鼓がありますが、季節は秋8月のお盆の頃になります。肌脱が夏7月の題であるのに、踊の太鼓は秋8月であり、季節が違うので、太鼓を打つ肌脱ぎは、俳句の材料としては成り立たなくなってしまいます。太鼓を打ちやすくするために肌着を脱ぐ行為には季節性が無いからでしょう。
肌脱と言う季題の季節感は、涼を求める生活の一齣であると考えるべきでしょう。風の通る座敷の縁側で、肌着をくつろげて団扇で涼をとる祖母の姿を思い出します。仏壇の脇には西瓜が供えてありました。季題の解釈で大切なのは季節感をしっかり理解することです。「無季の句もしくは季感のない句は俳句ではないのである」と虚子はその著「虚子俳話」で述べておられます。
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