昨日は、九年母1050号記念祝賀会の引き出物の件で、卒業しました銀行関連の商事会社を訪問し、見積もりをお願いしてきました。可能な限り安くしてもらって会員の皆さんに喜んで頂き、加えて、後輩の業績に繋がれば、こんな結構なことは有りませんので。
今日は午前中、三宮で九年母会の決算会議、午後はスタッフ3名にお集まりいただき、芦屋で発行所の事務研修会を開催しました。愚妻も参加し、永年発行所を支えて来た事務を指導してくれました。これからも毎月研修会を続け、来年4月からの発行所新体制の本格稼働に向けて準備を進めます。
さて、先日の句会で、こんな句が有りました。
学校に慣れしと我が子新樹かな
「新樹かな」を下五に据えていますが、何となく据わりが悪い感じがします。何故でしょう。下五を「かな」という切字で切ったために、新樹にも焦点が当たってしまったからです。「かな」という切字は切る効果が強いので、新樹にも思いが集中します。そうすると、上五・中七で詠った感動と、下五の新樹に対する感動と、一句に二つの感動が生まれます。学校に慣れたよと我が子が言った、ということと、新樹が美しい、という二つの感動を一句の中で詠んでいるのです。上記の句を次のようにした場合と比べてみて下さい。どちらの方が、句の流れがスムーズでしょうか。
学校に慣れしと我が子新樹晴
「かな」を最後に据える場合は、中七で切らずに新樹に繋げます。こんな新樹ですよ、と新樹にだけ焦点を当てます。同じ句会の句を例に引きますと、
摩耶の嶺にハイカーを呼ぶ新樹かな
濃き淡き彩それぞれの新樹かな
「かな」という切れ字の効果で、感動の焦点が新樹だけに当たって、句の流れが自然です。参考にして下さい。明日、あさってと、九年母同人会の宿泊吟行で松山へ参ります。ご機嫌よう。
心解く旅の新樹の回廊に 伸一路
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