2014年9月26日金曜日

第三の句

ある句会で、こんな句が投じられました。

       寄する波引く波月を遊ばせて

いわゆる「て止め」の句ですが、何がいけないのでしょう。結論から言いますと、この句は俳句ではないのです。五・七・五という定型も整っています。季題も有ります。俳句としての原則は踏まれているのに、なぜ俳句ではないのでしょう。

答えは、この句は連句の「第三」として詠まれる句だから、俳句ではないのです。俳句は連句の発句(最初の句)が独立して進化発展を遂げ、芸術としての高みに達したものです。これに対して、連句の3句目に詠まれる五・七・五を「第三」と云い、発句(五・七・五)、脇句(七・七)と詠み継がれた挨拶の歌が終了し、第三は本格的な歌遊びに入って行くきっかけとなる句の事です。

連歌の例(猿蓑)

       発句   市中は物のにほひや夏の月      凡兆  ⇒のちに俳句に発展   
       脇句    あつしあつしと門々の声         芭蕉
       第三   二番草取も果たさず穂に出でて    去来
       四     灰うちたたくうるめ一枚          凡兆 
        以下略 

第三の句は、脇句のあつしあつし、という言葉を受けて、田圃の二番草を取る間もないほど早く暑くなって、もう稲の穂が出てしまったことよ、詠んでいます。 第三は、最後を「て」「に」「にて」「らん」「もなし」の留字で留めるという決まりが有ります。良く見て下さい、発句には「や」という切字が使われていますが、第三には切字が使われていません。切れる言葉もありません。つまり、第三は切れないのです。切れずに最後を「て」で留める。最初に掲げた例句を見て下さい。切字がなくて「て」止め。第三であることが分かります。

第三は発句、つまり俳句にあらず、という事がお分かりになったでしょうか。切れては次の七・七へと繋がって行かないのです。逆に「て」止めの句であっても、しっかり切れている句であれば俳句なのです。

            館涼し虚子の世語る友ありて        哲也
            雲の峰旅の血潮の漲りて           〃

哲也先生の句には比較的「て」止めの句が多いのですが、さすがに「館涼し」、「雲の峰」としっかり切ってあります。「て」で止まる句が詠めた時は、切れが有るかどうか良く吟味して、俳句になるよう推敲してみましょう。    
       
         

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