今日は、颱風19号が接近する中、五葉句会の吟行で、神戸大学の構内を散策、鶴甲団地の中の鶴甲会館に会場をお借りして、句会を開きました。投句の中に「新松子」を季題に使った句が幾つか有りましたが、何れの句も入選には至りませんでした。
会が終わった後、作者の方から、新松子の季題としての本意は何だ、との質問が有りました。新松子をシンチジリと読めるのは、恐らく歌人・俳人だけでしょう。いつから、なぜこのように読む様になったのかは、全く分かりません。ただ、「ちちり」とは松かさの事、と広辞苑に有るのみです。
新松子は、ホトトギス新歳時記では秋十月の題として、講談社版「日本大歳時記」には晩秋の題として収録されています。現代俳句歳時記には、今年できた松の毬果で、青いもの、とあります。この様に調べてゆくと、この季題の中身が大分見えて来ました。それは「青さ」に有るように思います。
晩秋の木の実を考えてみましょう。此の頃には、栗は毬も実も茶色になります。櫟(くぬぎ)や楢(なら)の実などの団栗も、茶色く色づきます。柿もあけびも柘榴も皆色づきます。その中で、鮮やかな緑色を保っている松の実。この青さには、新鮮さ、清々しさを感じます。まさに、「色変えぬ松」の子、新松子ならではの感慨でしょう。
新松子が有ったから、という題の使い方では、単に見ただけの句になってしまいます。他の木の実が秋の色を深めてゆく中で、いつまでも青々としている新松子の佇まい。雪を被っても青々としています。この本意に思いを託して詠む、これが良いと思います。
学生の案内てきぱき新松子 伸一路
颱風が急速に近づいて来ています。どうかお気を付けください。
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