先日、大輪先生から『芭蕉の創作法と「おくのほそ道」』という最新の著作をお送り頂きました。8月にも『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』という著作を頂き、芭蕉に関する勉強が、ますます楽しくなりました。
さて、去来抄に次の一文が載っています。
「 病雁のよさむに落ちて旅ね哉 はせを
あまのやは小海老にまじるいとど哉 同
さるみの(猿蓑)撰の時、此内一句入集すべしと也。凡兆曰、病雁はさる事なれど、小海老に雑ざるいとどは、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也と乞ふ。去来は小海老の句は珍しといへど、其物を案じたる時は、予が口にもいでん。病雁は格調高く趣かすかにして、いかでか爰(ここ)を案じつけんと論じ、終に両句ともに乞て入集す。其後、先師曰病雁を小海老などと同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり。」
ご存知のように、どちらも芭蕉の代表句ですね。最初の句は、病気の雁が夜寒の琵琶湖に落ちて悩み苦しむ様に、私も旅の途中に病を得て難儀をすることだ、と近江の堅田で詠んだ句。次の句は、漁師の家の庭に小海老が干してあるが、その小海老にいとど(コオロギ)が混じっているよ、と詠んだ句です。
解説をしますと、凡兆と去来が猿蓑集を編集している時、この二つ句のどちらかを撰集に収録するように、と芭蕉から指示が有りました。そこで凡兆が言うには、「病む雁の句は立派な句だが、小海老の句は、季題の働きも良く、いとどが混じっているという詠み方も斬新で、誠に秀逸の句だ」と。これに対して去来は、「小海老は季題としては珍しいけれど、実際にその場面を目にすれば自分でも詠めるかもしれない。一方の病む雁の句は格調が高く、味わい深い趣があり、とても我々には真似が出来ない着想だ」と。どちらも自説を曲げなかったので決着がつかず、最後には芭蕉にお願いして、両方を選集に入れることになりました。その後、芭蕉先生は「病む雁の句と小海老の句とを同列に論じたのか」とお笑いになりました、という事です。
句の斬新さと格調の高さについて、凡兆と去来がそれぞれの意見を述べ合ったのですが、芭蕉は「何を言っているのだ、二人とも。この二つの句には格段の違いがあるのが分からないのか。そんなことでどうする」と笑ったのです。最初から分かっているなら、そう指示すればいいものを。こういうのを、底意地が悪い、というのでしょう。教育上の観点から2人に論争させたのなら、最後に師匠としての意見を説明するべきで、笑ってはいけません。芭蕉の一面を偲ばせるエピソードです。
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