2015年3月22日日曜日

彼岸の一日

今年は仕事が忙しく、滋賀の実家へ春の彼岸の墓参に帰れませんので、宗派は違いますが、神戸市内では一番親しくさせて頂いている摩耶山天上寺へ、家内と共に上がって来ました。本堂でのお詣りを済ませ、伊藤浄厳貫主(ホトトギス同人の虚舟先生)に挨拶してから帰ろうと寺務所の窓口に声を掛けましたら、「まあお上がり」と貫主が招き入れて下さいました。一瞬逡巡しましたが、主宰継承前のご挨拶をさせて頂こうと、厚かましくも上がらせて頂きました。

さあそれからが大変。俳句をお始めになった頃のお話しから始まって、ホトトギスや九年母との交流、播水先生の句碑の建立の裏話等、様々なお話を伺い、興味が尽きませんでした。生田神社や須磨寺の境内に播水先生の句碑を建立する際にも、お世話をなされたとの由。森澄雄や上田五千石、黛まどか等の著名な俳人が当寺をしばしば訪れておられた事も知りました。俳句結社を主宰しておられた頃の苦労話も、お聞きしました。あっという間に2時間が経ってしまいました。

貫主は北海道から九州まで、全国の俳人と交流を持っておられ、また神戸の財界とも太いパイプを持っておられます。昭和54年に全焼した摩耶山の伽藍を、今の状態にまで復興された実行力とリーダーシップは素晴らしいものです。高野山俳句大会を、播水先生の協力を得て摩耶山に移されてから今年で24年。毎年、汀子先生のご臨席を仰いで摩耶山俳句大会を開催されています。廃止になりかけた摩耶山ロープウェイが存続されたのも、国土交通省を動かした貫主のご努力によるものでした。

結果として九年母の主宰を継承する事になりましたが、独立して結社を立ち上げるように勧めて下さったのも、他ならぬ貫主でした。田鶴500号記念祝賀会の席で、「伸一路さん、独立するなら60代前半が限界。それより遅くなると体力的にきつくなる。」と背中を押して下さいました。その後、九年母主宰の所に永のお暇を頂きに行って継承を懇請され、ミイラ取りがミイラになってしまったのです。

結社を運営するにあたっての助言を沢山頂きました。家内にも、主宰を支える心得を説いて下さいました。これからも判断に悩むことがあれば、天上寺の門を叩きたいと思っています。境内には、三椏や連翹が咲き初めていました。俳縁・仏縁を感じる、お彼岸の一日でした。

       弥生とは黄色き花の多き月      伸一路

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