2015年4月24日金曜日

季題まがいの言葉

季題であるように見えて季題では無い言葉が有る。季題まがいの言葉である。例えば、先日の講座で出された、

     花びらの画紙はみだせしチューリップ

という句、絵に描いたチューリップの花びらが、紙をはみ出している情景を描いている。しかし、絵に描いたチューリップは季題ではない。

     花まるを貰ひて子等のチューリップ

画用紙に描いたチーリップに先生から、上手に描けたと花まるを頂いた。しかし、このチューリップも季題ではない。

     ランドセルはしやぐ笑顔はチューリップ

このチューリップも季題ではない。チューリップのような笑顔と詠んでいるからである。

絵に描いたチューリップはいつでも見られる。秋でも冬でも、チューリップの絵は見られる。絵のチーリップには季節感が無く、季節感が無ければ季語であっても季題ではない。夏になると、絵手紙に描かれた向日葵や茄子を詠んだ句をよく目にする。向日葵や茄子という季題には、夏らしい湿度や気温、風が感じられるが、絵にはこの様な季節感が無いのだ。紫陽花のような絵、茄子のような絵だからである。「ような」は本物ではない。俳句には「今・ここ・我」という原則がある。今、目の前に有る物や景を見て、自分がどう感動したか、これが俳句の種子になる。後は、この種子をどう発芽させ育てるかである。

      散り初めて川面に咲いたさくら色        

この句の「さくら色」も季題ではない。桃色、藤色、紫陽花色など、植物の名を冠した色が沢山あるが、これはあくまでも色の名であって、季題である物とは別のもの。

絵に描いた餅という言葉があるが、季節感があると思う人はいないだろう。

     大瑠璃の声透き通り山深み   伸一路     

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