2015年4月28日火曜日

春惜しむ

今年は5月2日が八十八夜。立春から数えて88日目。広辞苑によると、「播種に最適とされる。茶どころでは茶摘みの最盛期となる」とある。夏も近づく八十八夜、と唱歌にも歌われているが、確かに近い筈で、今年は4日後には立夏である。最近急速に気温が上昇し、最低気温が15度を上回るようになった。豊岡や舞鶴では、フェーン現象の影響で30度近い夏日となっている。春を惜しむ時期となった。

        行く春を近江の人と惜しみけり     芭蕉

この句は「行く春」という季題を用いて詠まれているが、内容的には「春惜しむ」という季題と表裏をなすものである。では、なぜ春を惜しむのか。春が快適な季節だから。では、いつに比べて快適なのか。夏の暑さと湿度の高さ、あの過酷さに比べて快適なのだ。この様な快適な陽気は今しかない。もうすぐ暑い夏が来る。だから惜しむ。しかし春惜しむという季題の本意には、移ろう季節の風物だけではなく、永年円満な関係にあった人との、離れがたい思いも含まれている様に思われる。

        恙身の老師と春を惜しみけり     伸一路

先日、とある町にお住いの老先生を見舞った時の句である。若い頃に俳句の基礎を教えて下さった生涯の恩人である。その先生が難病で臥せっておられる。お話しをしている内に、先生の目が煌めき増してきたのを感じた。春を惜しんでおられた。私も、出来ることならいつまでもお話しをしたいと思ったが、先生のお体に障ってはと、後ろ髪を引かれる思いでお宅を辞した。

惜しむのは春だけではない。古来日本人は、行く秋も惜しんできた。秋もまた快適な季節である。しかし寒さが徐々に厳しくなると共に、去りゆく秋が惜しまれるようになる。間も無く過酷な冬の寒さがやって来るからだ。

         戸を叩く狸と秋を惜しみけり     蕪村

秋には、季節の終着駅に近づいた思いがあり、人事にもこの思いが投影される。滅び行く前のしばしの温もりの様な思いである。このことから、春と違って秋を惜しむ場合は、深刻な、重い句にならぬように、例えば掲句の様に、コミカルに詠まれることがある。山の中で、子狐がお化粧をするのは櫨の実であり、簪にするのも紅葉の葉。いずれも秋の風景である。快適な季節が次に控えている夏や冬は、惜しむとは言わない。

ベランダで飼っていた2匹の金魚が鴉に襲われ、攫われた。20年前に買ってきた珠分金とコメットの3代目の子孫達。錦鯉と間違われるほどの大きさに育っていた。以前から鴉が狙っている気配を感じ、水槽に金網を被せていたが、餌をやった直後、水槽に水を足そうと部屋に入った瞬間にやられた。野鳥の会の会員として、鴉の生態を熟知していたのに、瞬間の油断を衝かれた。主宰の仕事が忙しくなってきており、手間のかかる金魚の飼育を止めよという事かも知れない。その代わりに、老師の飼っておられる目高を数匹頂いて来た。日本産の目高だそうだ。

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