2015年5月14日木曜日

現光寺にて

神戸市須磨区に現光寺という古刹がある。創建は室町時代の康永2年(1343年)。鎌倉幕府が倒れた10年後である。須磨に有った藩架(ませがき)という土地に小さなお堂が造られた。これがこの寺院の起源と言われている。この小さなお堂が現在の規模に拡大され、現光寺という寺号に改められたのは永正11年(1514年)、織田信長が生まれる20年も前の事である。これで大体の時期がご理解頂けると思う。

お寺の入り口に「源氏寺」と刻まれた巨石があり、寺号がかつては源光寺であったとの解説があるが、光源氏のモデルの一人、在原行平が須磨に滞在していたのは850年頃の事であり、同じくモデルの一人と言われる源高明が須磨に滞在したのは970年頃の事である。従って、小さなお堂が創建されたのは、これら源氏物語関係者の須磨滞在の時期より遥か後の事なのだが・・・。このお寺が源氏物語に所縁があるとされる理由は、もう少し調べてみたい。

芭蕉が須磨・明石を訪れたのは貞享5年(1688年)の頃。後に『笈の小文』(おいのこぶみ)という紀行文にまとめられたが、この旅の途中、芭蕉がこのお寺に宿泊したという伝承が残っている。『笈の小文』には、明石へ戻って泊ったと有り、微妙な違いはあるが、そのあたりは「事実は小説より奇なり」であろう。その際に詠んだとされる句の句碑が、境内に残されている。伝承の世界ではあるが、俳人にとってはロマンに満ちたお寺であり、『笈の小文』を読み返す機縁にもなろう。

       見渡せばながむれば見れば須磨の秋  はせを

それはさておき、このお寺の素晴らしい所は、その規模とか伽藍の荘厳さとかではなく、不死鳥のように再生する力である。戦国時代の永正7年(1510年)に発生した大地震により小さなお堂が大破。後に現光寺として再建された。江戸初期にも大地震が有り倒壊し、後に再建された。平成7年(1995年)、阪神淡路大震災で再び倒壊したが、平成14年(2002年)に復興し、現在に至ってる。偏に各時代の檀信徒の皆さんの信仰の力によるものだ。

本堂の内陣は美しく彩られ、天井には鳳凰が描かれ、欄間には須磨浦の波に戯れる千鳥が見事な鑿さばきで彫られてあった。京都の職人の最後の仕事と、ご住職から伺った。内陣の外壁には、源氏物語の様々な場面を描いた図絵が貼られ、絵巻物の様。当代のご住職の、飾らないお人柄も魅力的だった。このお寺の庭で今は亡き先輩俳人お二人の最後の邂逅が有ったことを、地元の会員の方からお聞きし、感銘を覚えた。

境内には実に様々な植物が植えられている。睡蓮やエゴの木の花、紫蘭や鈴蘭。姫射干(ひめひおうぎ)の群落や矢筈の芒に感動した。矢筈の芒の根元には「ナンバンギセル」という寄生植物が珍しい花を咲かせるという。古名を「思草」(おもいぐさ)と云い、広辞苑では秋の題。私は植物には弱いので、もっと沢山の花が有ったと思う。須磨と言えば須磨寺を連想するが、是非、現光寺のお庭も訪うてみて欲しい。
  
       復興の成りし本堂若葉風        伸一路
       射干を数多咲かせて須磨の寺      〃
     

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