2015年6月2日火曜日

猫の母

先日の句会で「母の日」という兼題が出た。その投句の中で、ひときわ目を引いたのが次の句である。
              母の日や祝はれもせず猫の母

これには思わず笑ってしまったが、俳句本来の持ち味である俳味がある句だと思った。母の日は人間の世界の事だと思っていたが、確かに猫にも犬にも、母親はいるのである。

日本人は取り分け愛情表現が下手ではにかみ屋が多いから、母の日でもないとなかなか母への感謝を表現しにくい。世間の人がこぞってするから、自分もそれに混じって、と右へ倣えで母に感謝の心を伝える。ところが猫や犬は、母であっても誰も祝ってくれない。ユーモアに富んだ句で、読んでいて楽しくなる。 

ところで、同じ句会で、

         母の日に訪へど笑はぬ母認知

という句が有った。ユーモアどころではない、深刻な句だ。ブラックユーモアかも知れないが、俳句の果たすべき役割を改めて考えさせられた。俳句は、極論すれば、自分の為ではなく読者のために詠むのかも知れない。小説家が、自分の為に長大な小説を書くだろうか。自分の思想・信条などを読者に伝えんがために作品に取り組むのだと思う。

俳句も、形は短いけれど文芸である。自分の想いを読者に伝えるという目的については、俳句も小説と同じである。そう考えると、掲句などは、表現の問題は別として、俳句の新しい地平線を示していると考えることも出来る。

虚子は、天然自然のみならず、人間の生活や社会の営みをも含めて俳句を詠めと教えられた。私たちを取り巻いている様々な問題に対しても、先入観や固定観念を抜きにして、俳句の題材として見つめることが必要である。

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