2015年6月5日金曜日

季重なり

私が主宰に就任して最初の雑詠選が、間もなく印刷に回される。案じていたが、従来通りの投句数であった。選をしていて気になったこと、それは季題の重なり、季重なりが多い事である。5句投句の内3句が季重なりで、結果として1句しか採れない、というケースが何件か有った。この傾向は、若手の人から高齢者まで、万遍無く見られた。

何故、季重なりをしてしまうのだろう。うっかりミスという事もあるが、季重なりであることに気が付いていないことが原因ではないかと思う。雑詠選でも、ふらここと夕焼けがセットになっていたり、遠足と葉桜が並んでいたり、下萌としゃぼん玉が同居していたり、と様々な季重なりが有った。中でも薄暑と汗のセットが、季節柄多かった。薄暑が季題であることは、俳句を詠まない人でも知っているが、汗が季題だと御存知ない方がある。

確かに、仕事をしくじってかく冷や汗には季節感は無い。会社や役所では年中冷や汗をかいている人も多い。私も長期の闘病生活を経験したが、痛みのために全身濡れ鼠になったことがしばしば有った。製鉄所の溶鉱炉で働く工員達の汗も季題か、と問われると困るが、総じて良い汗は季題、苦しい汗は季題では無いようだ。

季題と気が付かずに使ってしまう言葉もある。例えば6月の題に「昼網」がある。「夕河岸」の傍題であるが、明石漁港の昼網など、年中市が立っているのに夏の題である。春3月の季題「鮊子(いかなご)」を詠むとき、昼網の鮊子と使うと季重なりになってしまう。冬の夜の火事は、火事の中でも取り分け恐ろしい。この火事という冬の季題も、知らずに使う事がある。

意識して効果を狙って季を重ねることが有る。これは俳句を詠む上での技法の一つであるが、無意識の内に季重なりを犯し、指摘されて気付くようでは困る。心したいことである。

        紅梅は日に白梅は月にこそ   伸一路

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