2015年6月12日金曜日

俳句と個性

10年程前の事であるが、私が選者を務めているある句会で、私の指導方針に対して、「俳句は個性を尊重すべきであって、指導者が自分の型にはめるべきではない」と言った人がある。この発言に対し、私は次のように反論した。

「作者の個性を尊重すべきであるという説には賛成であるが、個性を発揮するためには俳句の基礎をしっかり学ぶことが大切だ。私はその基礎を指導しているのであって、私の型にはめようとしているのではない。例えば、美術学校の学生が油絵を学ぶとしよう。この学生は、いきなりカンバスに向かって油絵を描くであろうか。その前に、対象となるものをしっかりデッサンするはずだ。私が指導しているのは、この対象の味方とデッサンの仕方である。

デッサンが出来て後、絵の具を塗り始める。ここからは個性の世界になる。赤でも、様々な赤がある。その人の個性に合う色がある。対象をしっかり写生するという修練は、油絵のみならず日本画でも俳句でも同じだ。伝統俳句の世界で活躍するもよし、現代俳句の世界で活躍するのもまたよし。個性の世界に羽搏く前の、巣立ちまで導くのが私の仕事だ」と。

私が担当している六甲道勤労市民センター俳句入門講座の修了生の方で、現代俳句系の結社の若手の同人として活躍している方がある。兵庫県俳句協会主催の俳句大会などでも、会場の準備や披講など、目覚ましい活躍ぶりである。彼は熱心に受講され、素晴らしい句を発表されていたが、伝統俳句には飽き足らず、現代俳句に活躍の場を求められたのである。私にとっても、満足な結果である。今でも年賀状を頂いている。

個性を大切にするためと言って、したい放題に放っておいたらどうなるか。指導者として、或いは先輩として、無責任のそしりは免れないだろう。個性とは、正しい基礎の上に発揮されるものだからである。

       主亡き庭にさゆれて額の花    伸一路

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