2015年6月21日日曜日

俳句の適齢期

先日のある講座で、ある受講者の方が、私のこのブログの記事についての感想をもらされた。その方は、未だ受講し始めて間の無い方だった。大変嬉しく思うと同時に、ブログの力というものを思い知らされた。今年の虚子忌の後の懇親会の席でも、ホトトギスの同人の方から、ブログを見ていると、声を掛けて頂いた。

予想もしていない方がご覧になっている訳で、大変な事態が起こっていることに気が付いた。以前、ある俳句結社が、このブログの記事をそっくりそのまま、その結社誌に転載されたことが有った。日本国内のみならず、全世界の俳句を学んでおられる方が、自動翻訳システムを使って、それぞれの国の言葉に変換してご覧になられているのは、毎日のデータが示してくれている。今日も、ロシア、アメリカ、フィリピン、ウクライナの方がご覧になった。

という事は、このブログの影響力は「どえらいこと」なのかも知れない。よほど考えて記事を書かねばならないと、改めて自覚した次第である。かつては、若い人たちを俳句の世界に引き付けるためには、インターネットを活用する必要があると思っていたが、俳句という文芸には、ある程度の人生経験、言葉を変えて言えば精神年齢の成熟が必要であることから、何も慌てることはないという思いに至った。

ある公共放送の若者向けの俳句番組をご覧の方も多いと思うが、あれが俳句と言えるだろうか。若さの感性だけで俳句が詠めるなら、こんな楽なことはない。しかし、人生経験を共有することにより、感動が読者に伝わるのであり、その為にはある程度、人生経験の発酵と成熟が必要だと思う。単に才気煥発なだけの俳句では、苦境に沈む人には寄り添えないのだ。

毎日のように届く雑詠の選をしながら、俳句にも適齢期が有る事に気が付いた。家の中でじっとしているだけで脳に刺激が伝わらない人の作句力は、歳と共に衰えてゆくことも分かって来た。80歳代後半以降にその傾向が表れる。100歳を越えても、背筋の伸びた句を詠まれる方がある一方、85歳を過ぎた方の中には、こんなになってしまわれたのかと、愕然とする方もある。季重なりや字余りは申すに及ばず、投句5句すべて無季という方が有った。怖ろしい事である。

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