ある句会で次の句が投じられた。
母の居ぬ古里遠し柿の花
柿の花という季題が、亡き母親を偲ぶ思いを語っていて、感じの良い句であるが、私は選に入れなかった。それは、上五の、母の居ぬという表現に違和感を感じたからである。これに対して、こんな句も有った。こちらの句は選に頂いた。
母逝来て三年経ちたり初蛍
どこが違うのだろう。最初の句の失敗は、母の居ぬ、と母親に対する敬意を表現しなかったことにある。自分を産んで育てて下さった大恩のある方に対し「居ぬ」では、作者本人はそれでよいのかも知れないが、読者には違和感が残るのである。
学校で論語を習った方も多いだろう。「子日 學而時習之 不亦説乎」、この論語の最初の部分をどう読むか。「シ イワク マナビテトキニコレヲナラウ マタタノシカラズヤ」、私はこう習った。戦前に論語を学ばれた方は、「シ ノタマワク」と習われたのではなかろうか。私の習った読み方では子(孔子)に対する敬意は、全く感じられない。
同様に、母親に対して「居ぬ」では敬意が感じられず、ひいては作者に対する不信感すら感じてしまう。この様な場合は、敬語を使うと母親に対する追慕の情が感じられる句になる。
母在さぬ(まさぬ)古里遠し柿の花
逆に、二つ目の句も敬語は使われていないが、「逝く」と丁寧に叙してあるから違和感が無い。例えば「母逝きて」を「母死して」としたら、「居ぬ」と同様、余りにも直截的で、敬意が感じられない。師や父母、神仏には、適度な敬意を表した方が、句が優しくなる。
野仏の御手のひらへ柿の花 伸一路
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