2015年7月16日木曜日

髪洗ふという季題

颱風来襲の為、午前中はベランダの片づけ。午後は9月号の雑詠選に没頭した。歴史的仮名遣いに直したり、調子を整えるために手を入れたりしながらの選であり、なかなか捗らない。○を付けるだけなら楽だが、これではダイヤモンドの原石の発掘は出来ない。優れた感性を持って居ながら土に覆われている、そういう会員を見出すのは主宰の最大の仕事である。これはと思う方には電話を掛ける。初めて言葉を交わす会員の驚きと感動が、私の鼓膜に伝わって来る。この作業の繰り返しが、結社を大きく強くすると信じている。

さて、先日の句会で、髪洗ふという題が出た。どちらかと言うと女の方が詠みやすい季題かも知れない。男では、洗おうと思っても洗うものが無い方もある。面白いと思ったのは、かつて癌で長期入院した際、病室の看護師に洗面所で髪を洗って貰った際に、仰向きにされた事だ。男は床屋で洗髪してもらう時には、洗面台に向かって俯きになる。看護師の仰向き洗髪する不安を感じつつ、女は美容室では仰向きに洗髪するということに、初めて気づいた次第である。

夏は湿気が多く汗もかくので、洗髪すると気分がさっぱりする。朝シャンと言って朝洗う若い人も多い。そこで、髪洗ふという季題の本意を考えてみよう。ここで大切になるのが、女の髪に対する思いだ。髪は女の魂ともいう。女の髪には男を魅了する力があるとして、髪を隠す様に教える宗教もある。そんな髪を洗うのである。男には想像出来ない世界である。

嬉しいにつけ悲しいにつけ、女は髪を洗う。嬉しい涙も悲しい涙も、水と共に流れてゆく。髪は年中洗う。一方、俳句に不可欠な要素は季節感である。「無季の句や、季感の無い句は、俳句では無いのである」と虚子は『虚子俳話』の中で述べておられる。嬉しい・悲しいだけでは季節感は無い。夏という季節感を保ちながら、髪を洗う際の喜びや悲しみを詠うことだ。洗った髪を縁側や縁台で乾かす時の、夏の夜風の心地よさはドライヤーには無い。

       髪洗ふ精一杯の一と日終へ    伸一路

        

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