2015年7月8日水曜日

夏霧という季題

先日、汀子邸での句会で夏霧という題が出たので、私は次の句を投じた。

      夏霧の中や歩荷の息遣     伸一路

夏霧の立ち込める尾瀬沼の木道で、重い荷を負った歩荷(ぼっか)とすれ違った。喘ぎながら歩み去る歩荷の息遣いが心に残った。その時に出来た句であるが、どなたの支持も得られなかった。自分では悪くないと思っていたので、やや意外だった。

ところが帰宅後、講談社版「日本大歳時記」の夏の巻で他の季題を調べていたら、歩荷という季題を発見した。そうか、歩荷は夏の題だったのだ。季重なりになっていた。道理で支持が得られないはずである。迂闊な事で有ったが、勉強になった。

      落人の里を隠して夏の霧      伸一路

同時に出して、汀子先生に採って頂いた句であるが、九州の椎葉村のイメージで詠んだもの。汀子先生は六甲山の夏霧の句をお出しになられ、急勾配と急カーブが連続する表・裏の六甲ドライブウエイの夏霧の恐ろしさにお触れになった。私も特選句の寸評でこの事について触れた。前の車のテールランプすら消してしまう、夏霧の恐ろしさだ。

夏霧という季題の本意は、やはりこの恐ろしさにあるのではないだろうか。秋の霧が、稲刈りの終わった田圃を労るように包み込むのとはおよそ違う、ダイナミックな恐ろしさが夏霧にはある。

      夏霧の湧きちぎれ飛ぶ樹海かな     浩洋

浩洋先生から頂いたお便りに有った句だが、夏霧らしいダイナミックさが見事に描けている。このダイナミックさに比べると、私の落人の句は、冬に向かう落人の里の様な感じだ。秋の霧だ。この辺りが、汀子特選に入らなかった要因かも知れない。

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