2015年8月17日月曜日

孫の句

お盆が終わり、普通の日常が始まった。多くのお宅では、帰省子がそれぞれの自宅に戻り、ホッと一息つかれておられることだろう。

    夏休み孫は来てよし去にてよし

この川柳の良さは、万人共通の思いをピタリと言い当てているところに有るのだろう。将にその通りだと、納得できる。それでいてほのぼのとした人の情が伝わって来るから面白い。

句会でも講座でも、孫を句材にした俳句は枚挙に暇がない。特に、蝸牛と孫、蛍と孫、更には運動会と孫など、身近な句材と孫とを取り合わせた句が多いように思う。しかしながら、孫をテーマとした句は俗に「孫句」と呼ばれ、あまり上等な俳句とは評価されないのが実情だ。

         孫・ひ孫連れ母の日に子ら祝ふ   (ある講座での句)

何故だろう。可愛いい孫を詠んで何が悪い、と言われれば困ってしまうが、要するに主観が勝ちすぎることが多いからだろう。確かに孫は無条件に可愛い。だから、目に入れても痛く無いと言われるのだろう。この孫に対する思いが俳句に詠まれると、どうしても甘さが出てしまう。ウチの孫はこんなに可愛いのですよ、こんなに賢いのですよ、皆さん。これでは読まされる方が堪ったものではない。読者の中には孫が抱けない環境・境遇の方もおられよう。その方々の事もおもんぱかったならば、我儘勝手な句は詠めないはずだ。

この様な事から、私は孫をテーマにした俳句は、よほど素晴らしいものでない限り、選に頂かないようにしている。俳句は読者という存在を常に意識して詠まねばならない。自分の想いだけを一方的に発散している方も有るが、俳句は作者と読者との相互の共感が無ければ成立し得ない文芸だと、私は思っている。「いい句ですね」「有難う」、この関係である。

もっとも、孫句で有っても、読者の共感が得られるものであれば、それは俳句として評価されるものであることは論を待たない。どうしても孫の句を詠みたいと思われるならば、愛情表現を出来るだけ控えめにされることが大切だ。いわゆる「臭い句」にならないように注意したい。


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