2018年8月20日月曜日

選評の礼儀(重要)

俳句は、古来より茶禅俳と称され、精神修養の一つとされて来ました。どこかのテレビでやっているような、笑いながら、他人の作品をからかいながらするものではありません。俳句を嗜むとは、心を鎮めて自然に向かい、自然をお作りになった造化の神の素晴らしい御業を拝見して賛美することだと思います。そのためには、句会には茶会と同じく、精神を練るための幾つかの礼儀が有ります。今回はその中の一つ、選の受け方についてお話ししましょう。

 先日のある句会のことです。いつものように私は、選に頂かなかった句の寸評をしていました。その時ある方が、「先生に直してもらったら、有難うございます、と感謝の思いを表すのが当たり前と違いますか」と仰った。その通りです。私もそうして育って来ましたし、今でもそうしています。浩洋先生の句会に籍を置いた時も、選に漏れた私の句を先生が寸評されるときは「私の句です」と名乗り、先生の寸評をいただくようにしていました。そして寸評が終わったら「有難うございました」と礼を述べました。

 ところが最近の句会では、地虫が石の下に隠れる様に、黙りこくって密かに自分の句の寸評を聞いている方が大半です。これでは真剣に自分の句と向き合っているとは言えません。自分の句に句評を頂くのです。恥ずかしい事でも何でもありません。先生の前には全てを曝して、真剣に句評を聞く。疑問点があれば、その都度質問して納得して行く。その様な心境を経てゆくことで、句境が深まり上達して行くのです。自分の句であることが分って恥ずかしい、と思っているようでは、俳句の上達は見込めません。自分を無にして、真摯に句評を拝聴する、という心境。これは俳句の道における一つの悟りだと思います。この心境に目覚めて下さい。

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