2019年3月30日土曜日

時事俳句の命

先日の住吉大社松苗献詠俳句祭の選考会で話題になった事だが、今年の応募句には平成の元号を惜しむ句や、新しい元号を待望する句が多かった。凡そ三分の二ほども有っただろうか。毎年、松植う、苗木植う、ばかりでは新鮮味が無いので、格好の句材として取り組まれたのだろう。お気持ちはよく分かる。

4月末日で今上陛下が退位され、翌5月1日を以て皇太子殿下が即位される。しかし、これは歴史的・社会的な時事であり、俳句に詠むとすれば、どんな句になるだろうか。作者の心の計らいがあるとしても、二百年・三百年の命を保つ俳句になり得るだろうか。時事の説明になるのではないだろうか。日記に記念として記すには、何ら問題が無いが、文芸作品として発表しても、一年を待たずして単なる時事の記録の句になってしまう。これを俳句と呼ぶべきかどうか。

2020年には東京でオリンピック大会が開催される。試合の模様を詠んだ句が山のように巷に溢れることになるだろう。しかしそれらの句は、やがて歴史の流れの中に飲み込まれて消えてしまうだろう。これは時事を扱った句の運命といえる。時事句を詠んではいけないということではないが、芭蕉の教えられた「不易の句」を詠むことを、私達は常に念頭に置かねばならない。江戸時代初期に詠まれた「古池や蛙飛び込む水の音」の句は、現代でも輝きを失ってはいない。

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