子という表現について、ある句会の句です。
春雷に一喝されし子の喧嘩
子を詠んだ句は、どこの句会でも無尽蔵に出て来ます。しかし、子供の事を詠んでいると分かると、興味が半減します。何だ、子供の事か、と。作者は、自分の子供の事を思って詠んでいるのでしょうが、第三者がその句を読むと、作者の子供に対する愛情過多に辟易するのです。句が甘くなる。この句も、作者は子供の喧嘩を脇で見ているだけです。それでは、句の緊張感も迫力も臨場感も生まれないのです。この句から、子を抜いてしまいましょう。夫婦喧嘩かもしれないし、やくざの喧嘩かも知れません。迫力がありますね。
例)春雷に一喝されし喧嘩かな
子の未来指し示すかに春北斗
この句も自分の子の未来を描いています。あるいは学校の教員の句かも知れません。いずれにしても、作者本人の未来ではない事は確かです。ここで読者は興味を無くします。何だ、作者の事ではないのか、と。子を詠むと作者の主観的な句になり易く、読者に作者の思いを見透かされてしまします。子を抜いて自分を詠みましょう。
例)我が未来指し示すかに春北斗
虚子の「春風や闘志抱きて丘に立つ」の句と同じ迫力が感じられます。自分を詠むことです。俳句の原則は「今・ここ・我」です。今、ここで、我がどんな感動を覚えたのか、それが俳句の種になります。
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