私は講座でも句会でも、俳句は切れだと申しています。では俳句はなぜ切らないといけないのでしょう。もちろん切る必要のない句もありますし、意識しないのに切れている場合もあります。しかし大半の俳句は、意識して切ります。なぜでしょう。
俳句は短歌から生まれて、独立した文学です。短歌の上の句が独立したものですが、五・七・五の音の数は短歌の上の句と俳句は全く同じです。では、どこが違うのでしょう。短歌が下の句(七・七)の部分で表現しようとする事や思いを、俳句では、季題や切れを用いて表現する、この違いです。だから切ります。切る心地よさを味わって下さい。切れの無い俳句は、クリープを入れない珈琲のようなものです。(古い!)
かの島は史実を包み夏霞
この句は「包み」で切れてはいますが、私は一読して、この内容で詠むなら「や」で切ろうと思いました。ではどこに「や」を入れるか。その時「史実や」という言葉が浮かんだのです。これで全体を組み直してみましょう。
かの島の秘むる史実や夏霞
瀬戸の島/小さく散らばり/卯浪かな/
「瀬戸の島」で切れ「散らばり」でまた切れており、下五の最期が「卯浪かな」とまた切れています。しかも下五の「かな」は強い切れです。こうなると、句が寸断されてばらばらの状態になります。俳句には、滑らかな言葉のリズムが大切ですが、この句は、いわゆる三段切れの現象を起こしているのです。この句も、一読した瞬間に、「散らばり」と「かな」とではうまく調和しないと思いました。ならば、全面的な見直しです。
散らばれる瀬戸の島々卯浪寄す
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