昨日、葺合文化センターにて、こうのとり句会が開催されました。かつて葺合文化センター俳句講座で学ばれた方と六甲道勤労市民センター俳句講座で学ばれた皆さんを中心に結成された句会です。両方の講座から選ばれた方が、九年母編集部で活躍されていました。従ってかなりのベテランが揃っておられるのですが、それでも句会に出された句には、説明的な句が幾つか見られました。句会の清記から幾つかの句を抜いてみましょう。
友の死を悼むかに啼く寒鴉
奥山に独居をかこつ寒鴉
冠雪を染めつつ上る初明り
ベテランであってもこのような句ができるのですから、説明句を避けるのはなかなか難しいのでしょうが、逆にこの理屈が理解出来れば、俳句の技量はてき面に向上します。
では、掲句のどこが説明的なのでしょう。各句の中七のお尻をご覧ください。啼く・かこつ・上る、と全て動詞の連体形になっています。ということは次に来る名詞を修飾する形になっているのです。修飾するとは説明することです。掲句で言えば、寒烏とはこんなものです、初明りとはこんなものです、という説明です。
一方、俳句は詩です。作者の思いを景や物に託して述べる詩です。寒烏はこんなものですという説明は知識であって、作者の思いではありません。従って詩ではなく、俳句ではないということです。
掲句を見てみましょう。一句目は、友の死を悼んで鳴いている、二句目は、奥山に独居している、三句目は冠雪を染めながら上っている、ここが俳句に詠みたい作者の思いです。決して寒烏や初明りを詠みたいと思っているのではありません。
ならば次のように詠んだらどうでしょう。
友の死を悼むかに啼き寒鴉
奥山に独居をかこち寒鴉
冠雪を染めつつ上り初明り
一読して、寒鴉や初明りに対する説明感が消えていることがお分かりになると思います。連体形を連用形に替えることによって、下五の季題との間に「間」が生まれ、軽く切れます。これが説明感を抜くコツです。実行してみましょう。
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