九年母会の定例句会には、句歴の古い方が沢山おられます。毎月1回句会を開いている句会で、毎回私の選に一句も入ら無い方がおられます。句としては出来ているのですが、十年一日のような着想で、採れないのです。
石蕗咲いて狭庭の景の明るかり
狭庭にもなんともなしに冬めける
自宅の庭を「狭庭」と詠む。誰かにどこかに習われたのでしょうか。自宅の庭を、何故謙遜しなければならないのでしょう。そこに、一つの価値判断が含まれています。何か上目づかいで詠んでいるような卑屈な読み口、私の眼から見ると、そこが厭らしいのです。厭らしい句は頂きません。
鵙高音人の賑はふ道の駅
石蕗咲いて庭の片隅賑はへる
「賑はふ」とはどんな光景でしょうか。私は、「賑はふ」とは、歳末の黒門市場や、京都の錦市場のような光景を、初戎の境内のような雑踏をイメージします。人が沢山集まって、喜びに満ち、活気に溢れている、そんなイメージです。秋の収穫期であったとしても、道の駅なんぞで、こんな光景が見られるでしょうか。石蕗が庭の片隅に咲いている、これが賑わいと言えるでしょうか。どこかで習い覚えた言葉を、吟味もせずに使う、この無神経さに、私は違和感を覚るのです。
詰まる所、句柄が古いのです。いつかどこかで、誰かがで詠んでいた、それを真似ているうちに、言葉の感覚を失って惰性的に使っているのでしょう。虚子は「古壺新酒」ということを教えておられます。俳句とは古い壺のようなものではありますが、新しい酒を満たせば、新しい文芸になるのです。芭蕉に「きのふの我に飽くべし」という言葉があります。日に新、日に日に新。古い句柄に安住した瞬間から、俳句の進歩は止まるのです。
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