先日の講座で次の句が出されました。
おしゃれして冬帽被り義父来る
この句には、三つの問題が潜んでいます。列記しますと、
1、「義父」に「ちち」とルビが振ってあること。
2、おしゃれをして、冬帽を被って、義父が来た、という説明的な言葉の並べ方。
3、「義父」という主観的な言葉の使い方。
ということになります。先ず、1番から見ていきますと、義母にも亡母にも「はは」とルビを振っているケースが見られます。しかし、義母は「ぎぼ」としか読めませんし、亡母も「ぼうぼ」としか読めません。このような使い方は不適切とされていますので、どうしても義母を詠まねばならない時は、姑(しゅうとめ)など、義母であることが分かるように詠むことです。亡母も同じで、「亡き母の」など、亡くなっていることが分かるように詠みましょう。「母」という字は生きている方、「妣」は亡くなった方を表し、どちらも「はは」と読みますので、これで区別することも可能です。
次に、言葉の並べ方につきましては、俳句らしい並べ方を考えてみましょう。言葉に対する感性が問われます。例えば、
冬帽を被り義父来るおしゃれして
と並べ替えたらどうでしょう。どちらに俳句らしさを感じますか。
最後に、「義父」という言葉に何故こだわるか、という問題です。作者にとって、おしゃれして、冬帽を被ってやって来たのは「義父」かも知れませんが、「実父」が来たらどうでしょう。「義父」と「実父」との違いが必要かどうか。「義父」であることを読者に伝えないといけないか。読者にとって「義父」であることの意味は何なのでしょう。結論から言いますと、「父」で良いのです。「義父」というのは作者のわがままに過ぎません。作者の感動が読者に伝わって、初めて俳句になります。日記に残しておく句と、句会で発表する句は別です。作品とは何か、を考えてみて下さい。
冬帽を被り父来るおしゃれして
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