先日の読売俳壇に目を通していましたら、こんな句がありました。
獄に病み牧師の手紙あたたかし
仙台市の篠崎慶民さんの句でした。この句を読んで、私が俳句の勉強を始めた昭和59年頃、母から貰った『処刑前夜』(大樹社)という本を思い出しました。
戦後の混乱期に、俳誌「大樹」主宰の北山河さんと、その後を継がれた北さとりさんは、同誌の同人数名の方と共に大阪拘置所の篤志面接員をしておられました。この本はその時の、死刑囚達への俳句の指導の様子と、俳句によって変わっていく彼らの心境を、さとりさんが記録されたものです。
殺人などの重罪を犯した死刑囚たちの後悔と懺悔の日々が、彼らの俳句を通じて淡々と語られて行きます。そして死刑執行の申渡しと、執行日前日の送別句会。感情を交えず、情景だけを淡々と述べた文章から、見送る人と死に行く人との心の交流が伝わって来ます。ここまで真人間に戻っても殺される運命の悲しさ、それが絶句からもひしひしと感じられます。
この本が私の俳句の原点となりました。俳句の究極の目標は神仏に出会う事だ、とお話していますが、殺人犯が俳句を通じて厚生してゆく様子や、辞世の句を残して執行台へと向かう姿を知るにつけ、俳句とは何か、という問いの答えの一つがここにあるように思います。
いくつか執行直前の絶句を掲げますので、味わってみて下さい。同著より抄出したものです。
絞首台のぼりてみればあたたかき 不光
弥陀の前座せばいだかれあたたかき 秋月
梅雨晴れの光を背負ひふりむかず 祥月
一点の雲なき視界今朝の秋 正規
冬ぬくし別れの握手ありがたく 慶道
刑場へ一すじの道春の風 卯一
0 件のコメント:
コメントを投稿