令和7年6月19日、姫路句会、笹子句会に続き、JRの新快速が停まる駅シリーズの第三弾として、明石市に朝霧句会が誕生した。第一弾である姫路句会は九年母姫路支部を母体に姫路市内に有った俳句講座の受講者が合流して発足したもの。第二弾の笹子句会は県立嬉野台生涯教育センターの俳句講座の受講生を母体にして播磨句会が合流して発足したものである。いずれも既存の句会の会員の減少に対処するために私が中心となって統合を図ったものである。
かつては小学校の保護者が集まってグループを作り、俳句結社の幹部を指導者に迎えて俳句を習った。全員が初心者か多少の経験者だった。会社や役所、学校でも俳句クラブが盛んに作られた。その結果、昭和の後半から平成にかけての俳句の一大興隆期を迎えたのである。
播水の頃には九年母会の支部・句会が全国に88あったと言われるが、その頃が当会の絶頂期だったのだ。全国各地に有力な幹部が居られ、その方を中心に支部活動が展開されていた。しかしその後、新しい俳誌が勃興し俳句愛好者が分散した。加えて関西地区は平成七年に阪神淡路大震災に襲われ、当会でも沢山の方が亡くなられた。その後急速に進んだ人口の高齢化と新型コロナの蔓延に伴う活動の低下のために会員が急速に減少、豊橋、広島、鳥取などでは支部が消滅した。関東支部では病気療養の方が多く、会員が関東各地に分散していることもあって、集まって句会を開催するのが難しくなっている。それでも橋本文男さんを中心にメールやファックスなどを使って継続されており、そのご努力には頭の下がる思いである。
少子化の影響も大きい。私は昭和22年に生まれたが、同級生の数は全国で260万人だった。いわゆる第一次ベビーブームである。しかし昭和24年をピークとして新生児の数は減り続けて、昨年生まれた赤ちゃんの数は68万人と、ベビーブーム世代より200万人も少ないのである。
そのような環境の中で私が考えたのが、句会の統合である。既存の句会にはそれぞれ創設の謂れがあり歴史がある。しかしそれに拘っていては少子高齢化の波によって、やがて消滅してしまう。座して死を待つより少しでも復活の可能性がある句会同士が合併・統合した方が生き残れる可能性が高まると考えた。
一方、私には句会の選者や後日選、「九年母」や俳句雑誌の原稿の執筆など。山のように仕事があり、五分でも十分でも時間が欲しい。そのため高速で移動でき、車内でも仕事が出来る、JR神戸線を新快速で移動するという方法を考えた。JR西日本の新快速は、時速130キロという特急並みの高速で走行するが、特急料金を取らないという優れモノである。これを利用しない手はない。汀子先生も、俳句を作るには適度な緊張感があって静かな新幹線の中が一番良いと仰っておられた。 このようなことから新快速の止まる駅の近くに句会を集約することにした。
その頃、私が講師を務める姫路市内のショッピングセンターにあった俳句講座で、受講料の値上げと私の講師料の引き下げの要求が運営団体から出された。対応策について受講者と相談したちところ、受講料が高く交通の便も悪いので全員がこの講座を退会して九年母姫路支部に合流することになった。受講者が消えてしまっては講座が成り立たないので私は講師を辞任した。大半の方が赤穂から来ておられる九年母会員だったので、団結力がものを言った。高齢化が進み会員が減っていた姫路支部が新しい仲間を迎えて蘇ったのである。
笹子句会は西田浩洋元編集長亡きあと手薄になっていた播磨地区の句会を活性化させるために西脇市・加東市・加西市・三木市等の北播磨地区と加古川市・高砂市・播磨町等の東播磨地区の九年母会員や俳句愛好者に働き掛けて令和二年に私が創設した句会である。西脇市在住の会員を起爆剤にして、県立老人大学の俳句部の皆さんに声を掛けて結成し、そこへ播磨地区の会員の有志が合流し現在に至っている。
今般結成した朝霧句会は、明石支部と垂水支部を指導して来られた松田きよしさんが逝去され、指導者を失ったので、東播磨の中心である明石地区での九年母会の活動の活発化を図るために両支部を統合し、明石市内や神戸市西部にお住いの会員や、私が講師を務めている明石高年クラブ連合会主催の俳句講座の受講者に声を掛け、一緒に基礎から俳句を学ぶ機会を提供しようとするものである。
私は俳句の会は大相撲の力士が所属する「部屋」のようなものだと思っている。厳しい稽古を重ねることによって強くなってゆく。序の口から這い上がって、やがて関取になって大関や横綱を目指すのである。九年母会でも誌友・会員・同人・推薦作家と出世の道がある。今回述べたいずれの句会も、誰でもいつでも参加できる。ご近所の方は立ち寄って汗を流していただきたい。私が稽古のお相手を務めさせていただく。