2020年10月30日金曜日

要らぬお世話

 先日の句会で、次の句が出されました。

   爽やかや引退語る名選手

句の内容はいとも明瞭で、日常的にも良くある話です。しかし、問題は「名選手」という表現です。どんな選手か知りませんが、作者が勝手に自分の判断で名選手だと決めつけているだけかも知れません。そうであれば、作者の判断を読者に押し付けることになります。

競馬場の馬場を馬が走っているとしましょう。群を抜く速さで、まるで空を飛ぶように走る馬を駿馬といいます。ところが馬場を走る馬をすべて駿馬と読む人があります。中には、あまり足の速くないのもいます。いわゆる駄馬です。そんなものまで十把ひとからげにして駿馬というのはおかしなことです。

俳句では、作者の勝手な判断を交えることは禁じ手です。有りのままの状況をそのまま読者に提示して、読者の判断で鑑賞してもらうのが、俳句の原則です。例えば掲句は、

   爽やかに引退語る選手かな

これで良いのです。作者に押し付けられなくても、読者には名選手であったことが分かります。愛犬とか、愛猫とか、自分の飼っている犬や猫をこのように呼ぶのも、押し付けです。それこそ、要らぬお世話です。心したいものです。

2020年10月21日水曜日

平仮名で書く

 ある句会での事、廻って来た清記に次の句が有りました。

  さわやかや声聞くようなメール来る

読み始めた瞬間、あっと思ったのです。さわやか・・・これで良いか。正しい表記は「さはやか」です。その他にもこの句は「聞くような」と表記してあります。「や」と文語体の助詞がありますから、こちらも文語体で「聞くやうな」とするのが正しい。それはさておき、少なくとも季題・季語の表記を間違うのはまずいこと。いつも句会でお話していますように、歳時記の表記通りに書くのが原則です。漢字が多くなりすぎて句が堅くなるから、と思うのならば、季題以外を全部平仮名にされたら宜しい。変に気を遣って、句を駄目にしてしまう。角を矯めて牛を殺す、の譬え通りです。歳時記に漢字で書いてあれば漢字で、平仮名で書いてあれば平仮名で書けば良いことです。

一番良くないのは、表記の誤りを無視して「これは良い句だ、その通りだ、共感した」と感動してしまうことです。感動する前に、表記の誤りが無いか、文法は正しいか、漢字は間違っていないかなど、外形的なチェックをしっかりすることが大切です。次の句はどうでしょう。

    もみじ山燃えるを湖にしずめけり

「もみじ」を見た瞬間で、この句は終わりです。「もみぢ」が正しい表記。どんな名句であっても、これで終わり。「もみじ」と読んだ瞬間、選者の視線は、隣の行に飛びます。紅葉と書いておけばよかったのに、惜しいな、と思いながら。

2020年10月14日水曜日

ご当地俳句

 どこの句会でも、しばしば登場するのが「ご当地俳句」です。その様な特別な俳句のジャンルがある訳では有りません。要するに、作者の地元の地名や寺社仏閣などを詠み込んだ句の事です。例えば最近の句会でこの様な句が出されました

   播磨寺の遺跡称へて稲雀

播磨寺とありますが、読者に分かるでしょうか。地元の文物に誇りを持たれるのは結構な事ですが、読者に分かって貰えなければ、元も子も有りません。良くあるのが、ご自分のお宅の願い寺を詠まれること。私の実家の願い寺は生蓮寺ですが、地元の、それも檀家の方しか知らないでしょう。本山は永源寺ですが、永平寺としょっちゅう間違われます。紅葉とこんにゃくで有名な、と説明すると「ああ、あの」という反応が返って来ます。臨済宗永源寺派の大本山で、室町時代以来の歴史がある古刹なのですが。

   印南の空を広げて稲雀

印南だけで、どこか分かるでしょうか。兵庫県加古郡に稲美町印南があり「いなみちょういんなみ」と読みます。また、辺り一帯の平野を印南野(いなみの)と呼んでいます。和歌山県日高郡にも印南町があり、こちらは「いなみちょう」と読みます。全国にはもっと他に、印南と名の付く地域が有るかもしれません。いずれにしても、掲句の作者の思いが全国の読者に届くのは難しいと言えます。

俳句には、全国の誰にでも分かる、という普遍性が必要です。東大寺や延暦寺、富士山や比叡山のように、誰でも知っている名称は使えますが、これは無理かなと思う固有名詞は避けた方が良いでしょう。

2020年10月8日木曜日

類句・類想句について

 先日、選のレベルの違いについて、はっきりと実感する出来事が有りました。私が講師を務めている、さるカルチャーセンターの俳句講座で「栗」という兼題が出ておりました。そこで私は次の句を投じてみました。

       毬(いが)という産衣(うぶぎ)に栗の三つ子かな    伸一路

それなりに、可愛く詠めたという自信もあり、俳句評論家の家内の評判も良かったのです。その結果、20名の受講生の内13名が採って下さり、内5名の方が特選に採って下さったのです。気を良くした私は、私が通っている句会では最上級の句会にも投じ、関西を代表する25名の名人上手に評価を問うてみたのです。ところが、成績は零点。どなたも、振り向いても下さらなかったのです。

考えてみると、この句には類句・類想句が有りそうです。誰でも思う事は同じ。毬が落ちていて、中に栗の実が3個入っていれば、ある程度訓練を積んだ方であれば、私の句と同じでなくても、良く似た句は詠めます。沢山の句に目を通しておられる方からすれば、栗ならばこんな句はよく見かけるよ、ということで、箸にも棒にも掛からなかったのでしょう。

明らかに経験の差が評価の差となったのです。これはこれで良いと思います。経験を積んで来れば、類句・類想句の嗅ぎ分け方も身について来ます。今回の事は、類句・類想句を甘く見た私の手落ちだったと思います。良い勉強になりました。