2014年2月28日金曜日

春寒という季題

早いもので今日で2月は終わり。2月は逃げるといいますが、結構忙しい2月でした。ところで、去る2月26日の九年母運営委員会にて、1050号記念祝賀会の日程が決まりました。来年の3月30日(月)、神戸の生田神社会館にて開催されます。九年母会員は勿論の事、それ以外の方もこの際九年母会に入会して、私が哲也先生から主宰を継承する世紀の一瞬を、是非ご覧下さい。詳細は九年母7月・8月号に掲載の予定です。

さて、先日の句会にて、次の句がありました。

      春寒や園児の飛ばす竹とんぼ

未だ寒い春のある日、幼稚園では竹とんぼ遊びをしています。作者はこのような情景を描いて句にしました。園児の飛ばす竹とんぼ、の部分は写生です。問題は、春寒という季題の働きです。この場面でこの季題を使うべきかどうか、という事を考えてみましょう。

作者は、「春寒や」と詠んで気温の状況を示したのでしょう。春まだ寒い幼稚園で子供たちが元気に竹とんぼを飛ばして遊んでいます、と。しかしそれでは、春寒は単なる季語であって、季題として働いていません。俳句は季題をして語らせる文芸、という言葉を思い出して下さい。

では、春寒とはどんな季題なのでしょう。先日の下萌会で汀子先生の特選を頂いた句に、

      逆縁の友の涙や春寒し    伸一路

というのがありました。先生から、「この句、春寒という季題がものすごく効いていると思う」という選評を頂きましたが、これが春寒という季題の働きだと思います。つまり、マイナスベクトルの季題です。園児が楽しそうに竹とんぼを飛ばしている光景はプラスベクトルであり、ベクトルの方向が合わなくなっていますね。

この場合、「春寒くとも」とするとベクトルの方向が合います。お分かりでしょうか。しかし、これでは上五が字余りになってしまいます。ならば、これに代わるプラスベクトルの季題を探しましょう。たとえば、下萌ではどうでしょう。

      下萌や園児の飛ばす竹とんぼ

如何でしょう。ベクトルの示す方向を感じて下さい。下萌の時期は未だ寒さが残っていますが、ベクトルの方向はプラスです。

2014年2月26日水曜日

寒施行

ある読者の方からメールを通じて、「寒施行という冬の季題があるが、庭に来る小鳥の為に、オレンジを枝に差してやるのも寒施行と考えて良いか」という質問が来ました。寒施行とは、ホトトギス新歳時記によれば、「寒中、狐や狸などの餌が乏しくなったころ、小豆飯、油揚げなどを、野道、田の畦などに置いて施すことをいう。狐狸の穴と思われるところに置くのを穴施行という」とあります。

確かに、広い意味で捉えれば、オレンジを枝に差してやるのも施行の一つかもしれません。言ってみれば「枝施行」です。しかし、寒施行はあくまでも狐狸などの為に施すものと考えるべきだと私は思います。講談社版「日本大歳時記」を読みますと、ホトトギス新歳時記に載ってない部分が書いてあります。

曰く「供えた食餌が無くなっておれば五穀豊穣だと信ぜられ、福を報われると言った。提灯を灯して暗い田や山の道を子供を交え人々が誘い合って夜更かしをして目当てのところを歩いて廻ったものである。京阪地方を始め、本邦いたるところで行われる。」とあります。要するに、農村の行事であり、それも吉凶を占う呪術的な要素を持つ行事なのです。

オレンジを枝に差すことと、五穀豊穣を占うこととの関連性や如何に。これでお分かり頂けた事と思います。寒施行とは、単に狐狸を飢えから救うという事ではないのです。近くの神社の森に狸が居るので、飢えるとかわいそうだから餌を運んでやる。これも寒施行では有りません。

たとえば「絵踏」という季題のように、現在では行われていない行事も兼題として課されることがあります。見たことがないから詠めません、では俳人として情けない。情景を思い浮かべて、例えば自分ならどうする、と考えれば詠める筈です。寒施行でもそうです。物語の中で、寒施行をする自分を描いてみたらどうでしょう。穴の前に置いておいた油揚げが無くなっていたら、あなたならどう思いますか。その感動を詠んでみましょう。

        野施行や石に置たる海の幸     富安風生

2014年2月23日日曜日

心の洗濯

本日午後1時から、芦屋の虚子記念文学館に於いて、第7回虚子生誕記念俳句祭が開催されました。私は、26日の九年母運営委員会の資料作りに追われていますので、投句もせず、欠席の予定でした。ところが、雅一さんから、賞を頂くことになったとの連絡があり、資料もほぼ仕上がったので、飛び入りで参加することにしました。

会場に入ると、札幌大会や京都大会以来の懐かしいお顔が溢れており、来てよかったと思いました。今日の行事予定は、募集句の表彰式、大輪靖宏先生の講演、ミニ句会そして懇親会。先ず始まったのが、幼稚園児の受賞者の表彰。

     ももがすきあまいおいしいももがすき      菊乃

     おちばがねかぜといっしょにおどってる    真正

     よせなべのふたをあけたらおじいさん     優樹

     しちごさんまえばがないからわらえない    衣理杏

     かじかむてつなげばすぐにぽっかぽか    咲希

どの子も同じ幼稚園に通っており、私と一緒に俳句王国に出られた好子さんが俳句の指導をしておられる子たち。それにしてもこの感性の初々しさは素晴らしいと思いませんか。

この様な句に接しますと、捏ねたり捻ったりして句を作っている自分が、情けなくなります。好きなものを好きと言える純粋さ。子供たちにとっては当たり前の事ですが、私たち大人は、この屈託のない気持ちを理屈で鎧ってしまう。こんな事言えば笑われるのでは、と構えてしまう。この様な思いが感性を鈍らせてしまいます。思えば皆さんも、幼いころはこのような感性をお持ちだった筈です。

芭蕉は「俳諧は三尺の童にさせよ」という言葉を残しています。上記の句を読みますと、まさに言い得て妙。しかし、今更幼い頃には戻りようがありません。時折、年に一度でもこのような幼子の句に接して、心の洗濯をするのも大切な事かもしれません。

雅一さんは、本日、次の句で審査委員奨励賞を受賞されました。

     凩に吹き寄せられし峡八戸    雅一 

北海道知事賞に続く受賞で、おめでたい限りです。情景が見えて、凩という季題が良く効いています。しかし、上記の様な純粋無垢な句と並べられると、多少辛いかもしれませんね。

2014年2月21日金曜日

ホトトギス同人

昨日到着したホトトギスの3月号には、1400号の記念特集が組まれており、その中の「社告」に於いて、汀子先生による同人の推挙が発表されています。九年母会からは、松岡たけをさんと山之口倫子さんが推挙され、ホトトギス同人となられました。ご本人には勿論の事、会にとっても大変名誉なことです。

私が所属する下萌句会からは、友井正明さんが推挙されました。お三方とも、私の予定通りでした。次はこの方達だろうと思っていました。ホトトギスや伝統俳句協会の句会・大会で目覚ましい実績を挙げておられ、人格・力量とも、ホトトギスの同人として申し分のない方達で、真に嬉しい限り。お三方には心よりお祝い申し上げます。

これで、九年母会関係で生存されているホトトギス同人は14名となりましたが、他の俳誌に比べるとまだまだ見劣りがします。今回の皆さんに是非続いて頂きたいと思っています。

ホトトギスの同人には権利も義務もないが、虚子の「花鳥諷詠」という教えを正しく伝え、広めていくという責任がある、と汀子先生は語っておられます。ホトトギスの同人の正確な人数は把握していませんが、およそ1000人位かと思います。この方々が全国に分散し、「花鳥諷詠」の旗のもと、普及活動に当たっておられる訳です。微力ですが私もその一人です。

ホトトギスの同人とは、鎌倉幕府の御家人のようなもの。普段は各自の領地の経営に当たっていますが、一朝事あるときは、いざ鎌倉、取るもの取り敢えず駆けつけるのが、その任務です。現に、伝統俳句協会やホトトギスの毎年の全国大会や地方大会、祝賀会や研修会などの企画・立案から開催まで、すべてがホトトギスの同人の活動に負っています。ホトトギス同人の指揮の下、各結社の同人の方が裏方となって支えておられるのです。大変なご苦労ですが、その意味からも、新しく同人となられた皆さんの御家人としての意識と活躍が期待されています。

さて、先日偶然点けたテレビの「NHK俳句」岩岡中正選に、そのホトトギス同人の征一様の句が入選していました。作品を天下に示すことも同人の大切な任務の一つであり、正しい俳句の普及の一環です。ご了解を頂きましたのでご披露します。

     水餅のやうな齢となりにけり     征一

床の間の鏡餅のような華やかな時期を過ぎ、水桶の中に沈んでいる水餅。その水餅のような年齢とはどんなものでしょう。一線を退いても示し続ける存在感か。皆さんは、この句をどのように解釈し、鑑賞されるでしょうか。それぞれの人生経験から、さまざまな解釈が出来ます。それだけ味わい深い句であると思います。

2014年2月18日火曜日

梅ふふむ

今日の講座で、次の句を巻頭に頂きました。

       ふた粒の幼の前歯梅ふふむ

生え始めた幼児。前歯がふたつ覗いている下あご。この生命感あふれる有様を見た感動を、「梅ふふむ」という季題を使って表現しています。「ふふむ」とは、ふくらむこと。花や葉がまだ開かない状態であること。漢字では「含む」と書きます。梅ふふむとは、梅の蕾が膨らんで来て、今にも開花しそうな様子です。

この句の場合、歯が見えて来ている訳ですから、この梅は白梅のこと。ふた粒と詠む事で、幼児の発育が順調であることが分かります。幼児の歯も、梅の蕾も、どちらも、ある程度の時間を掛けながら、少しづつ成長していくという過程があります。この成長過程を、ふふむという言葉が語ってくれます。この句は、季題の働きが良く出ていると思います。

同じ講座で、こんな句もありました。

       退院の日の近づきて梅一輪

退院の日が近づいて来ました。辛い入院の日々、夢にも見た退院です。その日が近づき、心はわくわくしています。待ち遠しい退院の日、その思いを「梅一輪」が語ってくれる筈ですが、どうでしょう。私なら、「梅ふふむ」という季題を使います。ふふむという言葉には、日に日に膨らんで行くイメージがあります。そのイメージが、病気が日に日に良くなっていく喜びと重なるように思うからです。

       梅一輪一輪ほどの暖かさ      嵐雪

これでは、退院は未だ大分先のことのようです。


2014年2月15日土曜日

言葉を隠す

ある俳句講座にて、こんな句がありました。

       薄氷や母の手術を待つ孤独

作者のお母さんは90歳になられますが、この程大きな手術を受けられました。若い人ならいざ知らず、高齢者の手術は大変危険です。体力が落ちているので何が起こるか分からず、回復にも時間が掛かります。この先を考えれば、あえて手術をしなくても、という選択もありますが、お母さんの強い希望で、手術を受けることになったそうです。

さて手術当日、控室で手術の終了を待つ作者。ひたすら待つ時間は長い。先日の私の手術は1時間半で終わりましたが、大きな手術ですと何時間も掛かります。その思いを詠まれたのがこの句。
お気持ちはよく分かります。同情した方が何人か、選に採られました。

ところで、この句の季題「薄氷」は力が弱く、一句の中に強い言葉があると、その陰に隠れてしまいます。掲句で言うと「孤独」という言葉です。「薄氷」が季題として働かず、添え物の様に、影が薄くなっています。まるで借りてきた猫のようです。では、どうすれば良いでしょうか。

それには、「孤独」という強い言葉を隠すことです。孤独感がにじみ出るように、他の言葉の裏に隠すのです。たとえばこうです。

      春寒や母の手術を待つ時間

時間という言葉の裏に「孤独」という言葉を隠し、その思いがにじみ出るように、「薄氷」という弱い季題に代えて「春寒」を置きます。如何でしょう。こうすることにより「春寒」という季題が働いてくれます。

手術は無事終わり、やがて退院の時期になりました。その時の作者の句、

      退院の決まりし母や下萌ゆる

「下萌」という季題が良く働いています。良かったですね。

2014年2月12日水曜日

季語+ごとく

征一様から「冬野」での特選句を送り頂きましたので、掲載させて頂きます。

    片脚はふる里あたり時雨虹     征一        望郷の念

    石蕗は黄を天紺青を極めたる    同      黄と紺青のコントラストの美しさ

    竹林を浄め明るき嵯峨時雨     同      嵯峨野の時雨の明るさ

いずれも色彩を詠んで、美しい句ばかりです。特に三句目の嵯峨野の竹林に降る時雨の美しさは格別です。見事な句をご披露頂き、有難うございました。

さて、ある句会でこんな句が出されました。

    凍雲のごとくに部屋を動かざる

この句のように、凍雲という季語を比喩に使った場合は、その季語は季題としては働きません。季題の無い、無季の句になってしまうのです。譬えて言うならば凍雲のようなもの、では凍雲は季題になっていないことが分かると思います。この様に、季語に「ごとく」をつけると、季題にならず無季になるのです。逆に、「○○のごとき凍雲」とすれば季題として働く可能性はあります。

よく似た問題で、絵画や絵手紙に書かれた季語が季題として働くかどうか、という事があります。

    遺されし物の一つに桜の絵

    描かれし見事な茄子や絵手紙に

桜の絵や茄子の絵手紙は年中見られますので、この場合の、桜も茄子も季題にはならず、無季の句になります。

2014年2月9日日曜日

久方の

嬉しいことがありました。北陸地方を代表する俳句結社あらうみ会から、俳誌「あらうみ」4月号に掲載する「諸家近詠」5句を送るよう、依頼がありました。「あらうみ」誌では、毎月、最初の頁に汀子先生の句を5句。次から3ページに亘って、他の結社に所属する著名な作家3名の句を5句ずつ、諸家近詠として掲載しておられます。これに選んでいただけたのです。有難いことです。

ただし、15日までに「俳句界」に載せる句10句を送らねばなりません。「あらうみ」の締切が20日ですので、あと5句、早急に在庫の積み増しが必要です。今日の五葉句会の結果と、11日の颯句会、13日の千鳥句会でそこそこの句がいくつできるかが勝負。厳しい仕事です。

さて、先日の句会で、こんな句がありました。

    下萌ゆるときめきし日々久方に

下萌えて、ときめいた日が久しぶりに戻って来た、という意味でしょうか。問題は「久方に」という言葉です。先日開かれた九年母本部例会でもこの言葉を使った句が出され、入選5句の一つに採られた方がありました。このままでもよさそうですが、全くの誤用です。

久方の、という言葉は、空や天、月や日など、天体に関するものに掛かる枕詞です。有名な百人一首の歌がありますね。

    久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらん  紀友則

「久方の光のどけき」は、「久方の日の光のどけき」の「日」が省略されたもので、「久方の」は「日」に掛かる枕詞として使われています。

一方、掲題の句の「久方に」は、「久し振りに」の意味で使われていますが、「久方に」にこのような使い方は無く、誤用であることは、上記の和歌からも明白です。この意味で使うなら「久方振りに」か「久々に」でしょう。

     下萌ゆるときめきし日々久々に

これが正しい使い方。間違いやすい表現ですので注意が必要です。

2014年2月6日木曜日

楽しかりけり

ある句会でこんな句がありました。

     さくさくと薄氷リズム楽しけり

句の出来具合は別にして、この表現の間違いはよくあります。どこでしょう。そう、下五の「楽しけり」という表現です。

     薄氷をふみて掃除にはげみけり

この句の「はげみけり」という表現とどう違うでしょう。この句の最後の「けり」は、「励む」という動詞の連用形に接続していて、文法通りの正しい使い方です。ところが、最初の句の「けり」は、「楽し」という形容詞に付いており、これは正しい使い方ではありません。何故なら、「けり」という助詞は、動詞の連用形には付きますが、形容詞には付かないという性質があるからです。従って、「明るけり」「悲しけり」「美しけり」等も同様に誤りです。形容詞に付ける場合は、前に「かり」を付けて、次のようになります。

     楽しかりけり ・ 明るかりけり ・ 悲しかりけり ・ 美しかりけり

しかし、これを最初の句の下五に使うと、字余りになってしまいます。

     通学の足裏に踏みてさくさくと薄氷リズム楽しかりけり     

短歌ならこれで良いでしょうが、俳句の場合は、「けり」を取った、次の形にします。

    さくさくと薄氷リズム楽しかり

「楽しかり」は、楽しくあり、ということです。

2014年2月3日月曜日

即吟の力

昨日は、私にとって毎月最大のイベントである下萌句会が、汀子先生のお宅で開かれました。参加者は先生を含めて23名。兼題は「春寒」・「春時雨」・「紅梅」と嘱目。5句出句の5句選。月1回の、真剣勝負を挑む日です。加えて、これが最大の眼目なんですが、私の選と汀子先生の選との一致を確認する機会でもあります。先生の選との一致率が低下して来ますと、講座や句会を通じて、自分の選が正しくできていないことになりますので。

今回の句会に備え、1か月掛けて5句準備しました。マネージャー役の家内も「今月のは良いね」との評価で、私もそれなりに自信がありました。さて句会が始まりますと、見事な句が怒涛のごとく押し寄せました。これでもかこれでもかと、アッパーカットやボディブロウが飛んできます。互選では見事に坊主でした。

その要因は、即吟が出来なかったことにあります。句会が始まる前にほとんどの方が庭に出て、咲き始めた紅梅を鑑賞しました。やがて句会が始まると、即吟で詠まれた紅梅の句が、合戦の矢合わせの矢の如く、大量に飛んで来ました。目の前に当日の兼題が咲いているのです。即写生する力が問われたのです。机の上で詠んできた紅梅の句に、勝ち目は有りません。情けないほど迫力が違いました。全員が同じものを見、何とかものにしたいと思っていた句が目の前に提示されれば、思わず迷わず、採ってしまいます。これに負けたのです。

最終的には、「春寒」で詠んだ句が一句、汀子先生の特選に入りましたが、今回はそれだけでした。即吟力の恐ろしさを実感した一日。打たれ続けて、くたくたに疲れて帰りましたが、一致率指は75.6とまずまず。先生の句は2つ、特選10句のうち5句が採れました。倒れても只では起きないのが私の信条です。

2014年2月1日土曜日

月並みの句

 虚子の著「俳句はかく解しかく味わう」(岩波書店)の中に次の一節があります。「月並的の句はあまり作った事が無いから、その真似をすることは出来ぬが、要するに月並は、或景色を面白いと感じても、その面白い景色をそのまま叙することをしないで、何とか其処に理屈をこじつけ、その理屈を面白がるのである。たとえば、三日見ぬうちに蕾であった桜が、もう満開になってしまった、というだけでは満足しないで、「世の中は三日見ぬ間に桜かな」といわねば承知せぬ。即ち桜のまたたくうちに咲くという事を世の中のことにたとえ、世の転変は皆かくの如きものであるといわねば、面白くないように心得ているのである。」

ところで、今日の俳句講座でこんな句がありました。

     核家族言はれて久し雑煮膳

雑煮の膳に集まる家族が少なくなった、ここまでは事実です。昔は大家族が集まって賑やかに雑煮を祝ったものだが、今ではこの有様。核家族化が叫ばれて久しいが、やはりその影響だろうか。この部分が川柳的です。次の句はどうでしょう。

    福笑ピカソのやうな顔になり

この句は見たままの感想を句にしており、俳句として好感が持てます。

    福笑ピカソもミロも苦笑い

ここまで詠むと月並みの匂いのする句になります。理屈を楽しんでいるからです。ピカソやミロの絵を念頭に、あんな絵を描くピカソやミロでも、このお多福の顔には苦笑いするだろうな。正月の風物詩としての、福笑という季題ではなくなり、もはや単なる季語。理屈に走っていないか、絶えず警戒して、月並み句にならないように注意しましょう。

赤星水竹居著「虚子俳話録」(講談社)にこんな問答が載っています。

    某曰く。   先生、百年の後には我々の俳句はいったいどうなるのでしょうか。
  
    先生曰く。  再びもとの月並に返りますね。     (昭和10年12月17日)

虚子がこの言葉を発せられて79年、もうすぐ100年です。