2014年8月31日日曜日

硯洗という季題

先日の野鳥俳句会のある句会で、「硯洗」という題が出されました。硯洗いと読み、七夕の前日に硯を洗い、翌日の七夕に備えることをいいます。当日の句から、いくつか見てみましょう。
    
    能筆の妣(はは)は硯を洗はざり   [妣は亡くなった母親の事]
    短冊に平和の願ひ硯洗
    洗ひたる硯伏流水豊か

なぜ、七夕の前日に硯を洗うのでしょう。七夕の朝、芋の葉に置いた露や、稲の葉の露を取って墨をすり、牽牛・織女の二星に捧げる短冊を書きます。その為に、前日に硯を洗い、机を整えるのです。願うところは書や文章力の上達です。

硯を洗うのは日常茶飯事。毎日のように洗う方もあるでしょう。しかし「硯洗」は「七夕」と同じ秋8月の季題。書を習う方や文筆家にとって、硯洗は年に一度の、秋の行事なのです。

    達筆は享けず硯を洗ひけり
    照る坊主吊るし硯を洗ひけり
    洗ふごと硯に満つる水清し
    
七夕を迎える喜びを感じます。季節感は俳句の命です。

    遺されし硯を洗ふ夕かな    伸一路

2014年8月28日木曜日

秋出水

この度の、広島を初めとする豪雨災害で被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。随分怖ろしい思いをされた事と思います。特に、広島市安佐南区八木には九年母会の誌友が数名居られますので、肝を潰しました。幸いにも、死亡者・行方不明者の名簿にはお名前が有りませんので安堵しています。個別にお見舞いを、と思ったのですが、お取り込み中に却って気を遣わせてはと思い、遠慮しています。一日も早い復興を、切に念じております。

さて今月は、つぐみ句会、ひよこ句会に、「秋出水」という共通の席題をお出ししました。勿論、今回の各地での豪雨災害を念頭に置いての出題でした。目を覆いたくなるような惨状に対して、俳句は力を持ち得るか、という問いかけをしたつもりでした。

つぐみ句会
      幾筋も土砂の爪あと秋出水
      秋出水安否問ひゆくゴムボート

ひよこ句会
      子を捜す声の限りや秋出水(特選)
      流されし命の重み秋出水
      意のままにならぬ力や秋出水
      山は吠え河は怒涛や秋出水
      形さへ残らぬ家や秋出水
      

以上が選に頂いた句ですが、私の問いかけに答えられたのは、ひよこ句会の上から3つ目までの句でした。他の句は、写生に終わっています。大災害に直面した時の俳句の有り様、それは惨状を描くのではなく、如何に被災者の心に寄り添えるかという事だと思います。水や土砂崩れの心配の無いところに居て、実況中継するような、他人事のような句では、読者の心は掴めません。いずれの句も席題ですので推敲不足は否めませんが、自分が被災者の1人であったらどう詠むか、という視点が欲しかったと思います。

加えて、私も未だ出来ていませんが、秋出水と、梅雨時分の出水との違いの詠み分けです。秋出水の秋としての季節感をどう詠めば出せるか、という事を併せて考えてみて下さい。

       友の名を捜す名簿や秋出水    伸一路
      

2014年8月16日土曜日

溝萩という季題

先日のある句会で、難しい兼題が出ました。たまたま颱風の襲来で休会になり、後日選をさせて頂きましたが、皆さん、この兼題には閉口されたようです。その兼題とは溝萩です。

ミソハギ科の多年草で、田の畦や水辺に自生している高さ1メートルくらいになる直立した植物。仏花として用いる事が多く、群生している光景は晩夏初秋の風物詩、と物の本に有ります。千屈菜(みそはぎ)、聖霊花(しょうりょうばな)、鼠尾草(みそはぎ)という傍題も有ります。

古い季題で、江戸時代の作家にこのような句があります。

    鼠尾草や身にかからざる露もなし   暁台
    みそ萩や水につければ風の吹く    一茶

さて、今回の句会での溝萩は如何だったでしょう。

    溝萩や昔を偲ぶ水車小屋
    溝萩や戸毎に繋る石の橋
    溝萩の水門あくる老爺かな
    溝萩や暗渠はいつも水の音
    小流れを隠し溝萩群れ咲けり

溝萩と同じく湿地や水辺に咲く花に、溝蕎麦(みぞそば)というタデ科の植物があります。牛の額のような形の葉と金平糖のようなピンクの花が印象的ですが、溝萩よりもっと流れに近い植物です。水路の脇に、水漬いた状態で生えています。溝萩と同じく、秋の季題ですが、上記の句会の句に再度目を通してみて下さい。田の畦に生い茂る溝萩でしょうか、水路の脇に水漬いて茂っている溝蕎麦でしょうか。私には、溝蕎麦のように思えるのですが。季題の混同が有るようです。

溝萩という季題は仏花である事がポイントです。広辞苑にも「盂蘭盆会に仏前に供える」と有ります。この抹香臭さが、この季題の鍵だと思います。

    溝萩や風通しよき寺の庫裡

寺と庫裡とは言葉が重なりますので、庫裡だけで良いのですが、この句、庫裡の水桶に、本堂にお供えする溝萩が活けてあるというのです。花の背の高さも感じられます。すっくと立つ花の姿がいかにも仏花らしい佇まいです。抹香の匂いもします。

    溝萩や檀家の減りし峡の寺     伸一路

2014年8月11日月曜日

野分と颱風

颱風11号が通過しました。皆様の地方では、被害のほどは如何でしたか、お見舞い申します。当初、気象庁は九州上陸を予想していましたが、結果的には四国の東部に上陸、一旦、瀬戸内海に抜けた後、赤穂市付近に再上陸。兵庫県を縦断して日本海へ抜けました。

久し振りに強い颱風がすぐ近くを通過しましたので、強風と高潮を心配しましたが、無事でした。各方面からお見舞いを頂き、有難うございました。芦屋川は鉄砲川ですので、濁流が逆巻いていましたが、あっという間に流れは収まりました。六甲山の山崩れも無く、ホッとしています。

全国各地では甚大な被害が報告されています。被害に遭われた方には、お気の毒なことでした。お見舞い申します。

ところで、今回のような秋の大嵐を、野分と言ったり颱風と言ったりしています。実作に於いて、どちらで詠めば良いのでしょう。野分は古代から使われている雅を含んだ言葉。これに対して、颱風は気象用語。typhoon(タイフーン)に颱風という漢字をあてたもので、台湾方面から大陸に吹いて来る暴風雨だから颱風というとの事。

要するに、野分は秋の野を吹き分ける強風というイメージであるのに対し、颱風という言葉は、熱帯性低気圧という科学的な、或は東南アジアやフィリピン沖など、地理的な広がりのある言葉です。はたしてそれだけでしょうか。

鎌倉時代の元寇では、二度とも大風が起こって元の船団が壊滅しましたが、当時、現代のように気象予報が発達しておれば、元軍は侵攻の時期を変えたことでしょう。予想もしていない暴風が突如吹く、これが野分ではないでしょうか。海の上で命を守るために、漁師は様々な風の変化を発見し、この変化に敏感に反応するようになりました。やまじ・おしあな・送りまぜ・鮭颪・雁渡しなどの漁師言葉が季題になっています。これに対して、颱風は、事前に進路や風速などが分かっている秋の暴風、のように思います。

私たち現代の俳人は、どちらを使えばいいのでしょう。私は野分を使いたいと思います。颱風という言葉には、どうも即物的な、学問的な匂いがします。それに対して野分には雅な響きが感じられます。甚大な被害を目の前にして、雅な野分で詠めるか、という反論が有るでしょうが、俳句は詩です。被害の記録では有りません。東日本大震災の被害を目の当りにした長谷川櫂さんが、短歌を詠み、歌集をお出しになったことに通じると思います。

微妙な違いですが、この違いを味わいたいものです。颱風一過という思いは、野分には無いかも知れません。どちらでもよい、というのでは、あまりにも無神経すぎます。ホトトギス新歳時記では、台風ではなく颱風が季題となっていますので、ご注意下さい。

2014年8月7日木曜日

句の鑑賞②

金沢の征一様から、句をお送り頂きました。二つのグループにお出しになった句を纏めてご紹介します。

   薄もやのかかるあかとき花大根     征一

   働ける今がしあはせ花大根           同

   大根の花遙かなる我が故郷            同

   力まずに生きゆく事に花大根         同


大根の花をテーマに詠まれています。花大根という季題の働きを味わって下さい。特に最後の句、カトレア等の上品な室花では、こうは詠めません。庶民的な、平凡な花大根という季題の働きです。平凡な事を平凡に詠むことの大切さを教えてくれる句です。

   朧の灯空に積み上げ勤しめる      征一

都会のビルの残業風景でしょうか、朧の灯空に積み上げ、という表現が素敵です。3階建てや5階建てのビルでは、空に積み上げ、とは言いません。高層ビルであることが分かる、省略の効いた句です。勤しめる、という表現で、それぞれの窓にある人々の営みが見えて来ます。無機質な高層ビルの灯を描くのではなく、そこに働く人々の喜怒哀楽を描いているのです。写生をしっかりした上で、それに対する作者の思いを、そっと言葉の裏に隠す。すると読者には、その作者の思いが透けて見えて来るのです。まさに花鳥諷詠の句、味わうべき句です。

2014年8月5日火曜日

生身魂

8月前半の、3講座共通兼題の一つ、「生身魂」が終わりました。ある講座でこの兼題を「ナマミタマ」ですか、と質問した方が有りました。俳句以外ではまず使う事が無い言葉ですから、初心者には読めないのも止むを得ない事ですが、「イキミタマ」と読みます。

三省堂のホトトギス俳句季題便覧には「盆は先祖の霊をまつる行事だが、生きている霊にも仕えるという考えから盆の間に父母、目上の人などの長命を祈ってその生御魂をもてなし、祝い物を贈ったりする習慣があり、生盆とも言った。」とあります。要するに、存命の両親等の年長者・高齢者に礼を尽くすという、お盆の行事の一つであり、且つ、その対象となる高齢者もまた、生身魂と呼ばれるようになりました。角川合本歳時記には「生御魂」という表記も見られます。

兼題としては難易度の高い部類に入るのでしょう、そこそこ詠める方でも、十分な理解が出来ていなかった、というのが正直な感想です。例えば、次のような句、季題の働きをどう見るか。

     夫を立て一歩下がりて生身魂
     一合の酒を欠かさず生身魂
     五輪見る約束仲間生身魂
     二度までも三途の瀬踏み生身魂
     帰郷して隠居暮らしや生身魂
     愛犬と相似し仕種生身魂
     職退きて肩書とれし生身魂

如何でしょう。お盆という季節感が出ているでしょうか。必ずしもお盆でなくとも、という句のように思います。3講座で投じられた生身魂の句の8割が、このような高齢者そのものを描いただけ、というものでした。これに対して次の句は、お盆らしく、生身魂に対する敬愛の念が詠えています。

     敬ひて祈る長命生身魂
     四世代仏間に集ふ生身魂
     一族の心の支へ生身魂
     生身魂母在さばこそ集へたり
     健やかにいついつまでも生身魂

生身魂はお盆に特化された季題であることを忘れてはなりません。春の生身魂等というものはないのです。季節感は俳句の命です。

     集ひたる孫や曾孫や生身魂    伸一路

2014年8月1日金曜日

桔梗の御寺

7月30・31日と、兵庫県俳句協会の澤井会長・岡部副会長・楠田事務局長と私、計4名が、兵庫県香美町香住へ、この地区で開催されている募集俳句会の現地見学にお招き頂きましたので行って来ました。桔梗の寺として有名な遍照寺のご住職の肝煎りで、地域振興の一環として、「遍照寺の桔梗」や「矢田川流域・ジオパーク観光」を詠んだ句(雑詠)を、6月20日から11月30日まで募集しています。

「貝の会」主宰・澤井さん、「玄鳥」主宰・岡部さんと私の3名が、この募集俳句会の選者を仰せつかっていますので、遍照寺ご住職のご招待で現地を実際に見学して、選の参考にすることになったものです。遍照寺には約1000株の桔梗が今を盛りと咲き乱れ、境内を埋めています。その爽やかな色を、存分に楽しませて頂きました。境内の手入れも行き届き、随所にご住職のご苦労の跡が見て取れ、感服致しました。蜩の声が背山を包み、時折、夏鶯の声が風に乗って聞こえて来ました。

翌日は、ご住職の車で吟行地をあちこち案内して頂きました。圧巻だったのは、香住海岸周辺のジオパークの見学でした。三姉妹船長の運営する遊覧船で有名な「かすみ丸」の一番小さな船に乗船。インディアンの酋長の顔のような奇岩の島や、溶岩の作り出した天然記念物「鎧の袖」等の風景を楽しみ、釣鐘洞門をくぐり抜ける操船技術に感心し、あっという間の1時間半でした。

海洋資源の保護の為、この海岸では、海女などの素潜り漁が条例で禁止されているので、小舟を操ってサザエやアワビを獲る「磯見漁」が盛んに行われていました。その小舟の横を遊覧船が通る際には速度を落すなど、女性の船長らしい気遣いが感じられました。今回乗った船の船長は初代三姉妹船長の長女の三女で、二代目三姉妹船長のお一人。長女の娘さん達が三代目三姉妹船長だとか。女系家族が続いているのでしょう。すれ違う大きな遊覧船を指して、「あの船は私の姉(次女)が操船しています」と。香住の海の女性は逞しい。まさに女性が輝く時代です。

但馬路は稲穂に花が付く、大切な時期。棚田の周りには鹿除けの柵が巡らされ、その上を秋茜が群れ飛んでいました。暑かったけれども、稔りの多い見学会でした。桔梗は秋彼岸の頃まで楽しめるそうです。是非訪ねて、佳句を物にして下さい。帰路、ジオパーク資料館にて、当地の自然環境や産業・文化に関する資料を沢山頂いて来ました。選句の参考に、これから目を通す予定です。
                         

応募要領  葉書・Fax・メールに住所・郵便番号・氏名・年齢・電話番号を明記し、下記へ送付

        1人未発表作品3句まで。投句料無料。最優秀句は遍照寺境内に句碑を建立。

        〒669-6559 兵庫県香美町香住区小原616  遍照寺

        ℡ 0796-36-0604 ホームページは「桔梗寺 遍照寺」で検索